歴史と文化財

西宮の歴史

【西宮市街地南部】国道43号線開通(昭和38年1月6日)

更新日:
2018年1月1日
ID:
45133

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 「道の宮」と称される西宮市南部を東西に延びる国道43号。戦前に計画された「海岸線」は、戦後復興事業のひとつとして新たな「浜手幹線」計画のもと、工事が進められました。小さな建物が移転して幅員50mの空地が整地されてくると、人々は驚きを込めて「50m道路」と呼ぶようになりました。

00 昭和27年 50m道路と呼ばれる

 

 

戦前、戦後の浜手幹線計画

 昭和元年12月25日、道幅の狭い旧国道に代わり、阪神間の東西幹線道路として幅員27mの阪神国道(国道2号)が開通しました。

01 昭和2年 竣工直後の阪神国道 武庫大橋

 

 さらに昭和6年、「西宮都市計画街路網」が決定されました。市域の東西、南北に街路を31線・総延長97kmでつくる計画です。そのひとつである「海岸線」は、隣接する神戸と尼崎の都市計画街路に連絡させることで、将来的に商工業の利便性を向上させるとともに、住宅地としても発展できるよう計画されました。しかし、その計画街路はほとんど実施されないうちに戦時下に入りました。

02 大正末期 神戸銀行(多聞ビル)屋上より西宮神社方面を望む

 

 戦後、阪神間各都市はただちに都市計画の立案に着手し、多くの都市で戦前の計画街路が廃止となりました。昭和6年計画の「西宮都市計画街路網」も廃止、昭和21年6月新たに「復興都市計画街路」が決定され、早々に道路用地の取得が始められました。戦前より計画されていた「海岸線」は大阪市東住吉区から神戸市須磨区に延びる幅員50mの「浜手幹線」に計画変更されました。

03 戦後 西宮都市計画街路図(西宮市史第三巻より)

 

 

 

第二阪神国道開通への道のり

 昭和28年には大阪市御堂筋本町-神戸市灘区岩屋南町間が「二級国道173号」して認定され、ここに法律上正式に「第二阪神国道」が誕生します。

04 昭和27年 浜手幹線 札場筋ロータリー

 

 昭和32年には建設省(当時)直轄工事となり、この年の10月18日阪神甲子園球場の北側広場で起工式が執り行われました。いよいよ本格的な工事の始まりです。昭和34年には「一級国道43号」に昇格しました。

05 昭和32年 第二阪神国道起工式

 

 西宮市内の第二阪神国道は約6km。空襲で市域南部の大部分が焦土と化した西宮市は、昭和21年8月に決定された戦災復興土地区画整理事業により、住宅・街路・下水道等の整備に着手していました。戦災を受けていない地区も昭和31年に施行された鳴尾浜手土地区画整理事業などによって、用地確保が他の都市に比べて順調に進みました。

06 昭和38年 区画整理で移転する家屋

 

 第二阪神国道工事で一番の難所のひとつが阪神甲子園球場北側「甲子園陸橋」でした。
甲子園球場をはじめ、阪神パークや甲子園プール、甲子園海水浴場などがあり、季節を問わず多くの人々が行き交う場所に国道を通す必要があります。

07 昭和31年 国道開通前の阪神甲子園球場付近

 

 そこで、群衆の横断に対応するため、甲子園球場周辺は高架構造となりました。群衆がスムーズに流れ、高架下を観光バス等の駐車場としても利用できるように、当時の最新工法を使い、橋脚の間隔は約70mと非常に広くとられました。

08 昭和35年 甲子園陸橋の工事

 

 

華やかに開通式

 昭和38年1月6日、待ちに待った第二阪神国道開通の日です。この日開通したのは、尼崎-神戸間(一部を除く)の18.2km。尼崎市の辰巳橋では打ち上げ花火が冬空に響き、河野建設相(当時)によるテープカットに続いて、原口神戸市長(当時)がクス玉を割るとハトが舞い上がるたいへん華やかな通り初め式でした。震え上がるような寒さのなか沿道につめかけた群衆に見守られ、約350台の車が尼崎市の通り初め式会場から神戸まで西進しました。開通祝賀式は神戸王子体育館で行われました。

09 昭和38年 第二阪神国道開通式

 

 

第二阪神国道あれこれ

 西宮市内、第二阪神国道には多くの橋があります。昭和21年に始まる「戦後復興都市計画街路事業」で浜手幹線(後の第二阪神国道)に架けられた橋は郷土史家の飯田寿作氏によって名づけられました。夙川に架かる2本の橋は「上・下香櫨橋」、六湛寺川と東川は隣接しているので「西・東夕凪橋」、津門川は「幸寿橋」、新川は「白魚橋」と風情のある名がつけられていました。しかし、第二阪神国道工事で幅員50mの橋に架け替えられるにあたり、橋の名は夙川橋・津門川橋のようにそれぞれの川名を冠するようになりました。

10 昭和30年頃 上・下香櫨橋(現・夙川橋)

11 昭和30年 西・東夕凪橋と(現・六湛寺橋と東川橋)

 

 阪神国道の中央分離帯はグリーンベルトとなり、都市ごとに種類の異なる樹木が植えられました。それは道路に美観を添えるだけでなく、樹木を見ればどの町を走っているかわかるという日本で初めての試みでもありました。西宮市内には常緑樹のカンツバキ、トベラ、カイヅカイブキの3種類が植えられました。

12 昭和38年頃 第二阪神国道のグリーンベルト

 

 

より安全に安全都市宣言(昭和37年1月10日)

 昭和30年代に入ると、国内の自動車交通は急成長期を迎えます。信号機や横断歩道等の整備が十分でない中、歩行者、特に子どもが犠牲となる事故が続発しました。「交通戦争」と称された時代でした。
 昭和35年12月横断歩道表示が法律化され、昭和36年には西宮市内の第二阪神国道に初めて横断歩道がつけられることになりました。当時の横断歩道は中央でゼブラ柄が食い違うデザインでした。

13 昭和39年 第二阪神国道の横断歩道

 

 昭和37年1月10日、西宮市民の総意として交通災害や労働災害など都市災害のない明るい都市建設を誓った「安全都市宣言」が行われました。第二阪神国道全線開通を前に、各道路で増えゆく交通事故を防止するため、様々な取り組みが行われました。

14 昭和37年 安全都市宣言を行う田島市長(当時)

15 昭和37年頃 安全都市宣言の標識

 

 夜に対向車のライトで目がくらむことのないよう、第二阪神国道には約50m間隔で水銀灯が設置されました。当時「夜でも新聞が読める明るさ」と言い表されました。

16 昭和38年頃 水銀灯の並ぶ甲子園陸橋

 

 第二阪神国道の開通で南北の生活圏や校区が分断されることになり、児童の登下校も危険にさらされます。昭和37年には学校の近くに歩道橋が設置されることになりました。横断の利便性から地下道の設置が望まれましたが、地表近くを流れる宮水を守るという観点からも陸橋の設置となりました。渡り初め式は鼓笛隊や保護者も参加して、安全に通行できる喜びあふれるものになったようです。

17 昭和37年 浜脇小学校近くを横断する児童と建設中の歩道橋

18 昭和37年 浜脇小学校そばの歩道橋渡り初め式

 

 信号のない交差点にはミラーや横断旗も設置されました。また、小学校1年生の児童には黄色い帽子を送り、交通事故の防止をはかりました。

19 昭和38年頃 カーブミラーと横断旗の設置された道路

20 昭和38年 黄色い帽子を配られる用海小学校新入児童

 

 

 

市民生活の安全の推進に関する条例(平成12年4月1日)

安全都市宣言の精神を継承しつつ、災害に強く、犯罪、事故のない安心して暮らせる心かようまちづくりの基本理念を明らかにすることを目的として、平成12年4月1日「市民生活の安全の推進に関する条例」が制定されました。

 

 

参考文献

『第二阪神国道工事誌』

『西宮市史第三巻』

『西宮現代史第1巻Ⅱ』

『酒都遊観記』

『西宮市公報』

『市政ニュース』

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